2017年9月23日 (土)

【紀伊半島】鬼ヶ城・獅子岩(三重県熊野市)

神々の古郷・熊野市  Kumano

御浜町から続く七里御浜は、熊野市獅子岩付近まで延々と22kmも続き、長く緩やかな弧を描いている。

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七里御浜(獅子岩にて/三重県熊野市)

紀伊半島最大の花火大会で知られる熊野市には、天然記念物になっている「鬼ケ城」、「楯ケ崎」をはじめ、 「獅子岩」や、日本書紀イザナミノミコトの墓と記されている「花の窟神社」など、見所が多い。

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鬼ケ城

Sisi

獅子岩

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花の窟神社

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2017年9月10日 (日)

【紀伊半島】オレンジ王国(三重県御浜町)

オレンジ天国・御浜町  Mihama

ウミガメ公園を後に、さらに東へと向かう。
やがて、右手の海岸に植えられた防風林が突然途切れ、目も醒めるようなまっすぐに伸びた海岸線が目に飛び込んでくる。
ここから熊野市にかけて「七里御浜」が始まるのだ。
ここ御浜町は年中みかんのとれることでも有名で、東紀州のオレンジ天国と呼ばれている。

Mihama
(七里御浜)

     

2017年9月 3日 (日)

【紀伊半島】東紀州~ウミガメの町(紀宝町)

ウミガメの町・紀宝町  Kiho

面積の小さな鵜殿は、あっという間に通り過ぎてしまいます。右手に広がる熊野灘を眺めながら、車をさらに東へと走らせる。
紀宝町ウミガメが産卵に訪れる町で、日本で初めて「ウミガメ保護条例」が制定された町なのです。

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井田海岸にある「道の駅・紀宝町ウミガメ公園」を拠点に、町ぐるみでウミガメの保護活動が続けられています。
ウミガメ公園には、大きな水槽があり、孵化したウミガメが大きく成長するまで、飼育員によって手厚く育てられており、 こうした様子を見ていると、ウミガメがなぜかすごく身近なものに感じられてきます。
紀宝町の人々の温かさを垣間見ることができるほのぼのとした公園なのです。

 

           

2017年8月17日 (木)

【紀伊半島】東紀州~紀宝町鵜殿(三重県紀宝町)

東紀州  Higashi Kisyu

新宮から熊野川を東側に越えると、もうそこは三重県です。
紀宝町、熊野市、尾鷲市など熊野灘に面した、紀伊半島の東側を東紀州と呼びます。

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<平成の大合併が行われる前の三重県東紀州>

日本一小さな村・鵜殿  Udono

新宮から熊野川を東側に越え三重県に入ってすぐ、国道42号線の右手・熊野川沿いに「日本一小さい村」として知られる三重県最南端鵜殿村がありました。鵜殿村の面積は、わずか 2.88平方キロで、東京ディズニーランドの4倍しかなく、そこに5,000名ほどの人口を擁していたため、「日本で一番面積の小さな村」であると同時に、「日本で最も人口密度の高い村」でもありました。しかし、2006年に山間部の紀宝町と合併し、新しい紀宝町が発足しました。(この合併により、三重県から村はなくなりました)

かつて熊野水軍の本拠地となっていた鵜殿は、古くから造船と航海の技術を発達させてきました。それだけに、こんな小さな村っでしたが、鵜殿港という立派な港もあり、また、新宮市が目と鼻の先ということもあって、町には銀行やお店、病院など、生活に必要なものは全て揃っており何も不自由はなく、現在の紀宝町の「町」の部分を旧・鵜殿村が担ってきた形になっていました。対岸の新宮市からでも、海辺で操業する製紙工場が、村の繁栄を代弁しているかの如くシンボリックに白煙を上げている姿が印象的です。

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この鵜殿も、2011年9月に、紀伊半島豪雨(平成23年台風第12号)によって、隣接する新宮市やその周辺の町とともに大きな被害を被りました。
現在、復旧が進んだとはいえ、まだその爪痕が残されています。

  

     

2017年8月15日 (火)

【紀伊半島】谷瀬の吊り橋・十津川村(奈良県十津川村)

谷瀬の吊り橋・十津川村  Totsukawa

旧大塔村(現・五條市)を過ぎると、日本一面積の広い村・十津川村に入る。
村の北部には、十津川の渓谷に架かる長さ297m、河原からの高さ54mという非常にダイナミックな吊り橋がある。
この谷瀬の吊り橋は、村の生活道にもなっているのだが、橋を渡り始め中央付近まで来ると、かなりグラグラと揺れ スリル万点である。

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谷瀬の吊り橋を過ぎ、十津川に沿って、九十九折の道を南下していくと、右手に風屋貯水池が見えてくる。
非常に大きな貯水池で、その南の端にある風屋ダムの放水は、168号線から手にとるような距離に見ることが出来、 迫力満点である。

むかし陸の孤島であった
十津川村に、北部に風屋ダム、南部にニ津野ダムが作られた。ダムの建設に必要な道路も 整備され、自然災害に対する対策も進むようになった。こうして、徐々に、観光客の訪れやすい地域に姿を変えてきたのである。
とは言うものの、今でも秘境には違いない。しかし、一度は訪れてみる価値のある場所である。

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風屋ダムを過ぎ、長い
小井トンネルを抜けると、少しずつ、集落が大きくなってくる。 この十津川村南部が有名な十津川温泉郷となっている。
温泉街が続き、この村の中心地でもある。60℃~70℃といった熱湯が湧き出す温泉地帯で、 河原を掘っても湯の湧き出すところもある。
近くにある道の駅でも湧き出す温泉を手に取ることができるが、温度が非常に高いので注意した方が良い。

十津川温泉郷を過ぎると、急に集落が少なくなり、再び延々と山道が続く。
山肌からは、至るところで大小無名の滝が水飛沫をあげているが、特に、
七色にある十二滝は見事である。

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2017年6月25日 (日)

【紀伊半島】大塔コスミックパーク星のくに(奈良県五條市大塔)

紀伊半島を縦走するルートは主に3本あります。
最も西のルートが、高野龍神スカイラインを使う方法で、高野山と龍神を結んでおり、龍神からは、 みなべ(南部)にも通じていて、白浜や田辺方面につながっています。これは、和歌山県内を走るルートです。
残り2つのルートはいずれも奈良県南部の山岳地帯を縦走し、東紀州に抜けるルートです。
まず、中央を行くルートは、奈良県五條市から南に走り、十津川村を経て、和歌山県新宮市に出るルートです。
そして 、最も東のルートは、奈良県吉野から、大台ケ原の山麓を迂回し、三重県熊野市、あるいは、 尾鷲市に出るルートです。

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十津川ルート  Route 168

紀伊半島を縦走する中央ルートが、
国道168号線を使用するルートです。
168号線は、奈良県
五條市と和歌山県新宮市を結ぶ道路で、途中、旧西吉野村(現奈良県五條市)、旧大塔村(現奈良県五條市)、十津川村(奈良県)、旧本宮町(現和歌山県田辺市)、旧熊野川町(現和歌山県新宮市)を経由します。

大塔コスミックパーク星のくに  Ohto 
 
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 「
近畿の屋根」と称される大台ケ原に源を持つ清流吉野川の下流に位置する五條市から、 紀伊半島を縦走する国道168号線に入って南下していくと、旧西吉野村を越え、旧大塔村に入る頃から、周囲は深い木々に囲まれた山間部を走ることになります。

旧大塔村に入ってしばらく走ると、国道沿いに 大塔コスミックパーク星のくに があります。
ここには、天体望遠鏡を設置したドームが並び、宿泊するためのロッジもあり、天体観測に訪れる人も多い人気のスポットです。
さらに、プラネタリウムもあって、昼間に訪れても十分楽しめる場所です。

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2017年6月18日 (日)

【紀伊半島】紀の川・引の池(橋本市高野口町)

 

橋本市高野口町 Kouyaguchi

平成18年3月1日。高野口町は隣接する橋本市と対等合併し、橋本市高野口町となりました。和歌山市田辺市に次ぐ県下第3位の市の誕生です。
しかし、新橋本市伊都郡高野町九度山町新かつらぎ町)は、伊都地方として結束が強く、同一文化圏を形成しています。ここでは、高野口町エリアを紹介したいと思います。

高野口は、古くは高野山への登山口として栄えた宿場町で、江戸時代からは織物業の盛んな町でしたが、不況の続く昨今、 この町特有のパイル織物にも陰りが見えいますが、それでも、全国でも有数の織物の生産地であることに変わりはなく、全国生産の9割を占めるという織物産業の町です。

北は和泉山脈、南は紀の川に囲まれ、そのさらに南には、霊場高野山の山並みが続き、豊富な自然に 囲まれていますが、大阪のベッドタウン化も進み、京奈和自動車道も開通して、生活の便宜は年々向上し、人口も増えています。

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高野口の町並み

紀の川  the Kinokawa

奈良県大台ケ原に源を持つ清流吉野川は、和歌山県に入ると紀の川と名称を変え、蛇行を繰り返しながら、和歌山市まで流れ下っていきます。 幹線総流路136km、流域面積1,660平方キロに及び、県下では熊野川(新宮川)に次ぐ大きな河川です。

霊場高野山の麓を流れる川だけに、その流域には、歴史を秘めた古刹や神社が連なり、のびやかに広がる平野には、パラグライダーをはじめとするスカイスポーツの花が咲く。

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紀の川

庚申山(高野口公園)  Koushinsan

住民に最も親しまれている公園と言えば、JR高野口駅の北にある高野口公園、通称、庚申山でしょう。 小高い丘陵地に無数の桜の木が植えられ、花見のシーズンには、商工会が主催する桜祭りで賑わいを見せます。
山頂には、パノラマ展望台、50mローラー滑り台、ミステリーハウスなどの児童向けの遊具を揃えた公園になっており、 親子揃ってゆっくりと遊ぶことができます。

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庚申山(春は桜の花見で賑わいます)

引の池  Hikinoike

木喰応其上人によって池が作られ、紀の川から少し離れた町北部の水田にも水が引かれ、稲作の安定した収穫をもたらせたと伝えられています。
周囲はかつて鬱蒼とした木々に囲まれ、民家から離れているせいか何の物音もなく、岸辺に立つと少し怖いような静けさを感じていましたが、 京奈和自動車道の開通に伴い、側道も新設されて、このあたりの景色も一変しました。

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ありし日の引の池


この池のある「応其(おうご)」と「高野口」の関係について少し述べておきましょう。
高野口町は、明治2年に堺県に属し、翌明治3年には五條県の管轄を経て奈良県の管轄下に置かれていましたが、 翌明治4年には紀州藩が和歌山県となり、高野口町も和歌山県の管轄下に置かれたのです。
その当時は、もちろん高野口町とは呼ばず、 このあたりは、名倉村大野村小田村南名古曽村北名古曽村などの小さな村が点在していたのです。
明治21年、町村制が公布され、名倉大野の二村が合併して名倉村となり、さらに明治43年に高野口町と改称されたのです。

時は流れ、昭和30年4月15日、高野口町応其村信太村の3町村対等合併が行われ、新しい町名を高野口町とすることになりました。
この新しい町名には、霊場高野山の麓に位置する登山口としての意味に加え、特殊織物の生産地としての対外的知名度の存続という意味がこめられていたようです。

そして、平成18年3月には、隣接する橋本市と対等合併し、伊都郡高野口町から橋本市高野口町に生まれ変わりました。
ちょうど2年前の16年7月には「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録され、高野山への表参道であった町石道(ちょういしみち)も登録に含められ、活気づいていた時期でもありました。
その活気は続き、2016年には、世界遺産の拡大登録、 さらには、隣町の九度山町が、大河ドラマ真田丸の人気で、昌幸・幸村親子が暮らした町として注目を集めました。
今後、こうした観光産業を通じて、違った形での発展が期待できる楽しみなエリアとなっています。


        

2017年6月11日 (日)

【紀伊半島】切目崎から南部梅林へ(印南町・みなべ町)

かつて御坊までしか延びていなかった高速道路も、平成15年12月14日にみなべ(南部)まで開通し、さらに、田辺まで延長され、現在は、すさみ南まで走ることができます(有料区間は南紀田辺まで)
しかし、景色を楽しむなら御坊で高速を降り、並走する国道42号線を走る事をお勧めします。
ここからは、ずっとオーシャンビューの道を南下することになり、とても気持ちがいい。
漁業の町・印南
(いなみ)熊野九十九王子で知られるみなべ(南部)梅の里南部川(旧・南部川村)と魅力的な町が続くのです。

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切目崎  Kirime Head

紀伊水道に臨む印南は、漁業の町で、かつお節発祥の地としても知られています。
また、天照大神を祭る
切目王子神社は県の史跡にも指定され、熊野九十九王子の中でも格の高い五体王子の一つとされているのです。
このように話題は尽きませんが、なかでも素晴らしいのは海岸線の美しさでしょう。
紀伊水道に張り出した海岸線は変化に富んでおり、
切目崎から見る海の景色は、本当に素晴らしい。

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切目崎からの紀伊水道の眺め


南部梅林  Minabe Plum Forest

ひと目百万(本)、香り十里」と言われる南部梅林は、2月上旬から3月上旬が見頃。 日本一を誇る梅の旧南部川村地域は、南高梅の産地として、全国に知られ、梅の花の咲くシーズンには村全体が甘酸っぱい香りに包まれます。
梅を見ながらお弁当を広げるのも良し、カメラ片手に遊歩道を歩いてみるのも良し、ゆっくりと花見を楽しむことが出来ます。

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南部梅林


印南を過ぎて、
みなべ町に入ると、山肌に梅の木が目立つようになります。
旬の頃だと山全体がほんのりと淡いピンク色にかすんで見え、ここからは岩代梅林(いわしろばいりん)南部梅林(みなべばいりん)田辺梅林(たなべばいりん)と、大型の梅林が続くのです。
南部川を南に越えると、海岸線にソテツが林立する南部海岸に出ます。
左折し、
南部高校沿いの道を案内標識に沿って山間部に入っていくと、 すぐに南部梅林に辿り着きます。
(高速道路を利用する場合は、
みなべICを出て左に曲がり、少し戻るように走るとすぐ)

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付近には、うめ振興館などもあり、
紀州の名産うめ」のことをいろいろ学ぶことが出来ます。
また、このあたりから隣りの
田辺市は「紀州備長炭」の生産地としても知られています。

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南部川村うめ振興館

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ふつうの梅の1.5倍の大きさを持ち、皮が薄く肉厚のある
南高梅は、高品質な梅として全国に知られますが、品種改良の過程で農家の人々は大変な努力を重ねてきました。
この改良に大きな貢献をした地元の
県立南部高校の名をとって名付けられた、南高梅(なんこううめ/なんこうばい)は、まさに紀州を代表する名産品です。

梅の花見は寒く、立春を過ぎても、まだ寒波は衰えを知らず、日によっては小雪のちらつく中での花見となります。
しかし、花見が始まると、春はもうそこまで来ているのです。

紀伊半島の春は、紀伊大島水仙に始まり、みなべの開花を経て、次第に北上していくのです。

 

     

2017年5月29日 (月)

【紀伊半島】樫野崎灯台(紀伊大島)

樫野崎灯台  Kashinozaki Lighthouse

紀伊大島の東端に建つ白亜の無人灯台が樫野崎灯台で、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、明治3年(1870年)6月10日に初点灯された日本最古の石造りの灯台であり、日本初の回転式閃光灯台です。

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樫野崎灯台

エルトゥールル号遭難事故の場所として知られ、ここを訪れる観光客が絶えません。
決してスマートとは言えない太目の灯台ですが、いろいろな
大島の伝説を知ると、また違った思いで見ることが出来ます。

灯台内部には入れませんが、外部階段が設けられましたので、階段を使って灯台に登ることができ、灯台上部からは、遠く古座の海岸まで見渡せ、
紀伊大島の大きさを改めて実感させられるとともに、南紀らしい素晴らしい景観を一望することができます。

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巡航船が行き交う時代から、この
大島には多くの人々が暮らし、串本と一体となって文化を育んできたのです。
今では、
くしもと大橋も架かり、本土と陸続きになって、離島ゆえの不便さも解消され、ますますこの島も発達していくに違いありません。

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くしもと大橋

また、1月に灯台を訪れると、周辺には明治の初期にイギリス人灯台技師が故郷を想い植えたと伝えられる
水仙が辺り一面に咲き誇り、樫野の岬を美しく黄色一色に染め、一足早い南紀の春の訪れを告げています。

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樫野崎灯台周辺に咲く水仙(1月)

灯台につながる遊歩道には、トルコ人によるソフトクリームのお店や、トルコの民芸品のお店などもあり、景観の美しさに加え、歴史と文化の交流が作り出す連帯感が、観光客の心を癒してくれます。


 

 

 

  

2017年5月28日 (日)

【紀伊半島】エルトゥールル号が繋いだ日本とトルコの絆

トルコ記念館  Turkey Museum

くしもと大橋を渡り大島に入ると、島の中央を東西に幹線道路が通じていて、一番東の端に広い無料駐車場があり、そこから島の東端・樫野崎灯台まで遊歩道が続いています。
その遊歩道の入口にあるのがトルコ記念館です。
エルトゥールル号遭難の悲劇を通じて串本町トルコとの交流が始まり、国際的な友愛の精神を広く伝えるための記念館です。

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Toruko2

 
エルトゥールル号の遭難について、伝えられている話を要約してみましょう。

日本トルコとの修好の使命を果たし終えたオスマン・トルコの木造戦艦エルトゥールル号は、遠くトルコイスタンブールへの帰途につきました。

そして、明治23年9月16日、悲劇が起こりました。
接近中の大型台風とエルトゥールル号は、紀伊半島の南で正面から遭遇することになったのです。


熊野灘の暴風雨は、エルトゥールル号を容赦なく翻弄し、樫野崎灯台沖の、船甲羅(ふなごら)の岩礁へと押し流していきました。

昔から船乗りにとって海魔と恐れられていたこの岩礁に乗り上げた艦は、中央より両断し、特派大使海軍少将オスマン・パシャー 以下587名の尊い命を瞬時に奪い去ったのです。

一命を取りとめた士官ハイダール以下69名は、荒れ狂う怒涛の中、大波に翻弄されながらも必死に島に這い上がり、 樫野崎灯台に助けを求めてきました。
「仲間が海に…!」
しかし、時すでに遅しでした。

嵐の深夜、ましてや通信機関も救助機関もない離島での大事件です。

島の人たちは、言葉の通じないトルコの人々に身振り手振りでコミュニケーションをとり、手持ちの着物やふとんを持ち寄って、応急処置と看護にあたり、また、各戸に蓄えていた芋や、 飼っている鶏などの食糧を提供しました。
島の食糧はたちまち底をついてしまいましたが、人々は各戸の食糧の一切を惜しげもなく喜んで提供したと言われています。

さらに、荒れ狂う嵐の中、自らの命の危険も顧みず、海岸に次々に打ち寄せられる遺体を断崖の上まで運び上げたのです。

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船甲羅

発見された遺体は、船甲羅の見下ろせる樫野の丘に埋葬され、翌年、樫野崎に墓碑が建てられました。
以来、今でも、樫野小学校(現・大島小学校)の児童たちによって、墓地の清掃が続けられています。

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トルコ軍艦遭難記念碑

さて、事情を知った明治天皇は、ひどく心を痛め、救出された船員たちを、当時日本最新鋭の戦艦であった「金剛」と「比叡」をトルコに派遣し、国運をかけ、 船員を送り届ける指示を出したのです。

代償を求めない大島の人々の献身的な姿が そして日本の対応が 日本とトルコとの友好の絆をさらに深めていったのです。

時は流れ、1985年。
中東ではイラン・イラク戦争が激しさを増していました。

そんな中、イラクサダム・フセイン大統領(当時)は、民間機も含めイランの領空を飛ぶ航空機は全て撃墜することを宣言し、 異国の者は48時間以内に退去することを命じる声明を出しました。
その結果、イランに多くの日本人が取り残される事態となってしまったのです。

当時、海外に自衛隊を派遣する事が絶対に許されなかった日本にとって、取り残された日本人を救出する術はありませんでした。
また、どの国の航空機も自国民を脱出させることに精一杯で、とても日本人まで搭乗させてもらえる余裕はありませんでした。

しかし!
事情を知ったトルコは、危険を覚悟の上、遠くイランまで救援機を送る決定をしてくれました。
パイロットをはじめ、全ての乗員は、業務命令ではなく、自ら志願して名乗り出た者ばかりであったと言われています。

かくして、2機のトルコ航空機が、空爆の続くテヘラン近郊のメヘラバード国際空港に向かい、逃げ惑う日本人全員を救出してくれたのです。

その後、駐日トルコ大使は、「エルトゥールル号の借りを返しただけ」と短いコメントを発表。
日本人に救われ、その上さらに、今も続けられている手厚い祈りと奉仕活動に対して、トルコは捨て身の行動で恩返しをしてくれたのでした。

トルコの学校教育で使用される教科書には、必ずエルトゥールル号の説明がなされています。
2010年には、日本トルコの友好関係120周年を記念して、「2010年トルコにおける日本年」と題し、 1年間を通してトルコ全土で186の行事が実施され、大盛況となりました。
また、現在、日本トルコが共同で、船甲羅付近に沈没しているエルトゥールル号の遺品の回収作業を進めています。
さらに、2015年12月、エルトゥールル号の事故を後世に語り継ぐため、日本とトルコ合作の映画「海難1890」が公開され、話題になりました。

日本トルコは、これからも末永く、エルトゥールル号が繋いだ絆を深めていくことでしょう。

 

        

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